散歩中に他人の犬に手を噛まれた、飼い犬とじゃれていて指に歯が当たった、実家の猫に引っかかれた——。犬に噛まれたとき——つまり犬咬傷を負ったとき、多くの方はまず「血もそれほど出ていないし、様子を見れば大丈夫だろう」と考えます。しかしこの傷は、外から見える傷の大きさと、皮膚の内側で起きている汚染の深さが一致しない外傷の代表格です。針で刺したような小さな穴に見えても、その奥では歯とともに口の中の細菌が深部に押し込まれています。
この記事では、救急科専門医の立場から、犬・猫に噛まれた直後にご自身でできる応急処置、医療機関を受診すべき危険なサイン、病院で行われる洗浄・縫合・抗菌薬の考え方、そして見落とされやすい破傷風トキソイドの追加接種と海外での狂犬病対策までを、順を追って整理します。なお本記事は一般の方向けの受診の目安を示すもので、個別の診断・治療方針を決めるものではありません。判断に迷う場合は必ず医療機関にご相談ください。
犬に噛まれたらまずこれ|受傷直後の応急処置5ステップ
やることは多くありません。順番だけ間違えないでください。最も重要なのは「消毒」ではなく「洗浄」です。
- 安全を確保する。まず犬から離れ、再度噛まれない距離を取ります。興奮した犬に手を伸ばして押さえようとすると二次被害が起こります。可能なら飼い主に連絡先と、その犬の狂犬病予防注射・健康状態を確認しておきます。
- 流水と石けんで、時間をかけて洗う。目安は15分程度。水道水を出しっぱなしにして、傷の中まで水が届くように洗い流します。この「物理的に細菌を減らす」工程が、その後の感染するかしないかを大きく左右します。ただし勢いよく出血している場合は、洗浄より止血が先です。次の手順で圧迫し、出血が落ち着いてから洗ってください。
- 出血は清潔なガーゼやタオルで押さえる。傷の上から手のひらで直接圧迫し、可能なら心臓より高く上げます。5〜10分押さえても拍動性に出血が続く場合は、圧迫したまま受診してください。
- 傷を密閉しない。洗浄後は清潔なガーゼで軽く覆う程度にとどめます。ラップや防水絆創膏でぴったり塞ぐと、内部に残った細菌にとって好都合な環境になります。
- 状況をメモしておく。「いつ・どこで・どの動物に・体のどこを・どのように」に加えて、ご自身の基礎疾患、破傷風を含む予防接種歴、国内か海外かを記録します。これが診察室で最も役立つ情報になります。
逆に、やらないほうがよいこともあります。傷口を口で吸う(口腔内の細菌をさらに追加することになります)、洗わずに消毒液だけで済ませる、傷の縁をテープで強く寄せて閉じてしまう、そして「明日まで様子を見る」と決め込むことです。特に最後の一つは、後述するとおり感染が動き出すまでの時間が短い咬傷ではリスクの高い選択になります。
犬咬傷が侮れない理由|傷は小さくても、感染は深いところで始まる
犬の犬歯は円錐形で、皮膚を切り裂くというより「刺す」形になります。その結果、入り口は数ミリでも、細菌が皮下組織や筋膜のレベルまで運ばれた穿刺創ができあがります。表面をいくら消毒しても、深部に届いた細菌には手が届きません。
咬傷の感染は、好気性菌と嫌気性菌が入り混じった混合感染になることが特徴です。なかでも臨床的に重要なのが次の2つです。
- パスツレラ・ムルトシダ(Pasteurella multocida):犬・猫の口腔内常在菌です。特徴は進行の速さで、受傷から数時間〜24時間程度という早いタイミングで、強い痛みを伴う発赤・腫脹・熱感が広がってきます。「昨日噛まれて、朝起きたら手が腫れて曲がらない」という経過は典型的です。
- カプノサイトファーガ・カニモルサス(Capnocytophaga canimorsus):これも犬・猫の口腔内にいる菌です。保菌している動物は多い一方で発症する人はごく少数ですが、いったん発症すると敗血症、播種性血管内凝固症候群、多臓器不全へ進行しうるのが問題です。潜伏期は1〜14日(多くは1〜5日)で、発熱・倦怠感・腹痛・吐き気・頭痛といった、一見「風邪や胃腸炎」に見える前駆症状で始まります。糖尿病、肝硬変、全身性自己免疫疾患、悪性腫瘍などの基礎疾患がある方、脾臓を摘出した方、ステロイドや免疫抑制薬を使用中の方、習慣的に大量の飲酒をする方は特に注意が必要とされていますが、生来健康な方の発症例も確認されています(厚生労働省「カプノサイトファーガ感染症に関するQ&A」)。
なお猫の咬傷は、犬よりも感染率が高いとされます。犬咬傷で創部感染に至るのが15〜20%程度であるのに対し、猫咬傷では50%を超えるという報告があります。猫の歯は細く鋭いため、より細く深い穿刺創になり、洗浄が傷の底まで届きにくいからです。猫に引っかかれた場合には、猫ひっかき病も鑑別に挙がります。受傷から3〜10日ほどで傷の部位に赤い盛り上がりができ、その後おおむね1〜3週間のうちに、傷の近くのリンパ節(手なら脇、足なら足の付け根)が腫れて痛むという経過をとります。
動物による外傷は、種類によって危険の中身がまったく変わります。屋外で受傷しやすいものとしては、マムシに噛まれたときの対処法や、蜂に刺されたときの応急処置とアナフィラキシーも別記事で解説しています。犬猫の咬傷は「毒」ではなく「細菌」が主役、という点が最大の違いです。
すぐ受診すべき危険なサイン|迷ったらこのリストで判断する
まず、受傷したその日のうちに受診したほうがよい状況です。ひとつでも当てはまれば、傷が小さく見えても医療機関で診てもらってください。
- 手・指・手首を噛まれた(皮膚のすぐ下に腱鞘や関節があり、腱鞘炎・化膿性関節炎・骨髄炎へ波及しやすい最重要部位です)
- 傷が深い、あるいは関節や腱に達している可能性がある。指の曲げ伸ばしがしにくい、力が入らない、しびれる
- 顔面・頭部(特に乳幼児)、耳、性器の咬傷
- 圧迫しても出血が止まらない、皮膚が大きく剥がれている
- 糖尿病、肝硬変、悪性腫瘍、ステロイド・免疫抑制薬の使用、脾臓摘出後、習慣的な大量飲酒がある
- 高齢の方、乳幼児
- 海外で噛まれた、または野生動物・コウモリ・野良犬猫による受傷
- 破傷風を含むワクチンの接種歴が不明、または最後の接種から長期間経っている
次に、いったん帰宅した後でも、出てきたら受診すべき感染のサインです。
- 受傷から数時間〜1日で、発赤・熱感・強い痛みが目に見えて広がっていく
- 傷から中枢に向かって赤い筋が伸びる(リンパ管炎)、脇や足の付け根のリンパ節が腫れて痛む
- 傷から膿が出る、悪臭がする
- 38℃以上の発熱、悪寒やふるえ、強い倦怠感、腹痛や吐き気などの全身症状
特に最後の項目は重要です。傷そのものは落ち着いているのに、数日後になって「熱が出てだるい、お腹が気持ち悪い」という形で全身症状が先に出てくることがあります。このとき「数日前に犬(猫)に噛まれた」という一言を医師に必ず伝えてください。その情報があるかないかで、検査と治療の組み立てが変わります。
病院では何をするのか|洗浄・縫合の可否・抗菌薬
主役はやはり洗浄とデブリードマン
医療機関でも、治療の中心は大量の生理食塩水による洗浄です。必要に応じて局所麻酔をかけ、傷を広げてでも底まで洗います。汚染された組織や失活した組織を取り除くデブリードマンを併せて行うこともあります。歯の破片が残っていないか、骨折や関節への穿破がないかを確認するため、部位によってはX線検査が行われます。
縫うか、縫わないか——部位によって判断が変わる
「傷なんだからすぐ縫ってほしい」と思われるかもしれませんが、咬傷ではあえて閉じないという選択が取られることがあります。深部に細菌を残したまま密閉すると、膿がたまる方向に働くためです。感染リスクが高いと判断される創(手・指の咬傷、細く深い穿刺創、受傷から時間が経っている、基礎疾患がある等)では、開放創のままとするか、数日後に感染がないことを確認してから閉じる待機的な縫合が選ばれやすくなります。
一方で顔面は事情が異なります。血流が豊富で感染に比較的強く、かつ整容面の影響が大きいため、十分な洗浄とデブリードマンができていることを前提に一次縫合が選択されることがあります。「手は縫わない方向、顔は縫う方向で検討されやすい」という大まかな傾向を知っておくと、説明を受けたときに納得しやすいと思います。
予防的な抗菌薬の考え方
まだ感染が成立していない段階でも、感染リスクが高いと判断される咬傷には予防的な抗菌薬投与が推奨されます。第一選択として広く用いられているのはアモキシシリン・クラブラン酸で、好気性菌と嫌気性菌の両方に加え、前述のパスツレラをカバーできることが理由です。
ペニシリンにアレルギーがある方には別の薬剤が選択されます。投与期間は予防目的か治療目的かで異なり、創部の状態や基礎疾患によっても変わるため、具体的な量と日数は必ず主治医の指示に従ってください。自己判断で残っていた抗菌薬を飲む、途中でやめる、といった対応は避けるべきです。
咬傷で見落とされやすい破傷風トキソイドの追加接種
咬傷は、土で汚れた傷と同様に「感染リスクの高い創」として扱われます。追加接種の考え方は、接種歴と創の性状で整理されています。
- 破傷風トキソイドを含むワクチンを3回以上接種済みで、汚れの少ない浅い傷 → 最後の接種から10年以内なら追加は不要、10年以上経過していれば1回追加
- 土などで汚れた傷や深い傷(咬傷はこちらに準じて扱われます) → 最後の接種から5年以上経過していれば1回追加
- 接種歴が3回未満、または不明 → トキソイドの接種に加えて、汚染創では抗破傷風ヒト免疫グロブリン(TIG)の併用が検討されます。またこの場合は1回打って終わりではなく、3〜8週間隔で2回、その6〜18か月後にもう1回という基礎免疫のシリーズを完了させる必要があります
日本では小児期の定期接種に破傷風トキソイドが含まれるようになったのが1968年以降です。それ以前に生まれた方は基礎免疫を持っていない可能性があり、外傷時には特に確認が必要になります。母子健康手帳やお薬手帳を持って受診すると判断がスムーズです。
破傷風という病気そのもの(潜伏期・症状の出方・なぜ土の傷が危険なのか・ワクチンの有効期間)については、破傷風とは?錆びた釘や土のついた傷が危険な理由と予防法で詳しく解説していますので、そちらをご覧ください。接種基準の一次情報は国立健康危機管理研究機構(JIHS)の破傷風解説で確認できます。
狂犬病は心配すべきか|日本国内と、海外で噛まれた場合
結論から言えば、日本国内で飼い犬に噛まれた場合、現状で狂犬病のリスクはきわめて低いと考えられます。国内の犬における狂犬病の発生は1956年を最後に報告がなく、その後の国内感染例もありません。過度に不安になる必要はありません。
問題は海外です。日本では1970年にネパールで受傷した1名、2006年にフィリピンで犬に噛まれた2名、2020年にも同じくフィリピンで噛まれた1名が、帰国・入国後に発症し、いずれも致命的な転帰となった輸入例として報告されています。いずれも国外での受傷であり、国内で感染した例はありません。アジア・アフリカ・中南米をはじめ、世界の多くの地域では狂犬病が依然として流行しています(厚生労働省「狂犬病」)。
渡航先で犬・猫・コウモリ・サルなどに噛まれた、引っかかれた、あるいは傷口や粘膜をなめられた場合は、次のように動いてください。
- その場で石けんと流水で15分以上、傷を洗い流す
- できるだけ早く現地の医療機関を受診し、曝露後予防(ワクチンの連続接種、状況に応じて抗狂犬病免疫グロブリン等の投与)を開始する
- 渡航前に曝露前接種を済ませていた場合は、曝露後に必要な接種回数が少なく済みます
- 現地で開始できなかった場合でも、帰国後すぐに検疫所や渡航医学を扱う医療機関に相談する
狂犬病は発症してからの有効な治療法が確立されていません。だからこそ「噛まれた時点で動く」ことがそのまま対策になります。旅行の予定が残っていても、この受診だけは後回しにしないでください。
よくある質問(FAQ)
Q1. 出血もほとんどなく、歯形が少しついただけです。それでも受診が必要ですか?
咬傷では「出血が少ない=軽症」とは限りません。むしろ穿刺創は出血で細菌が洗い流されにくく、感染のリスクという点では警戒すべき形の傷です。特に手・指の咬傷、基礎疾患がある方、破傷風の接種歴が不明な方は、見た目が軽くても受診をおすすめします。それ以外の部位で全身状態も良い場合は、十分な洗浄を行ったうえで、翌日にかけて発赤・腫脹・痛みが広がらないかを慎重に観察してください。
Q2. 消毒液は使ったほうがよいですか?
消毒よりも、まず流水と石けんによる洗浄です。市販の消毒薬は表面には作用しますが、深部に押し込まれた細菌には届かず、洗浄の代わりにはなりません。「消毒したから大丈夫」と考えて受診が遅れることが、実務上いちばん困る展開です。洗浄を十分に行ったうえで、補助的に使う位置づけと考えてください。
Q3. 狂犬病ワクチンを毎年打っている飼い犬に噛まれました。抗菌薬も必要ないのでは?
別の問題として考える必要があります。狂犬病ワクチンは狂犬病を防ぐものであり、口の中の常在菌であるパスツレラやカプノサイトファーガによる細菌感染を防ぐものではありません。健康でワクチン接種済みの飼い犬でも、これらの菌は口腔内に普通に存在します。抗菌薬を予防的に使うかどうかは、噛まれた部位・傷の深さ・受傷からの時間・基礎疾患をもとに判断されます。
Q4. どのくらいの期間、様子を見ればよいですか?
細菌感染の多くは受傷から24〜48時間以内に症状が現れ、特にパスツレラは数時間〜24時間と早い経過をとります。まずこの期間は、発赤・腫脹・痛みが広がっていないかを注意深く見てください。一方でカプノサイトファーガによる全身症状は1〜14日(多くは1〜5日)と幅があり、猫ひっかき病のリンパ節腫脹は受傷から1〜3週間ほど経ってから目立ってくることがあります。したがって、局所の赤み・腫れは最初の2日間を重点的に、発熱や倦怠感などの全身症状は2週間程度、リンパ節の腫れは3週間程度を目安に意識しておくとよいでしょう。
Q5. 何科を受診すればよいですか。救急車を呼ぶ目安は?
日中であれば、外科・形成外科・皮膚科・整形外科(手や指の場合)が対応します。夜間・休日は救急外来で構いません。救急車の要請を検討すべきなのは、圧迫しても止まらない大量出血、意識がもうろうとしている、顔色が悪く冷や汗をかいている、呼吸が苦しい、悪寒やふるえを伴う高熱がある、といった全身状態が明らかに悪い場合です。判断に迷うときは、救急安心センター事業(#7119、実施地域に限る)や、お子さんであれば小児救急電話相談(#8000)に相談する方法もあります。
まとめ
犬に噛まれたとき、その場でできる最も価値のある処置は、石けんと流水で15分ほどかけて傷を洗い流すことです。消毒液を探す時間があるなら、蛇口をひねって洗ってください。犬咬傷は、皮膚の入り口が小さくても深部に細菌が届いている穿刺創であることが多く、見た目の傷の大きさは重症度の指標になりません。
そのうえで、受診をためらうべきでない状況ははっきりしています。手や指を噛まれた場合、傷が深く関節や腱に達している可能性がある場合、糖尿病や肝硬変、脾臓摘出後、免疫抑制薬の使用といった背景がある場合、そして海外での受傷です。帰宅後も、赤みが広がる・赤い筋が伸びる・膿が出る・熱が出て強くだるいといったサインが出たら、その時点で医療機関に向かってください。
医療機関では、洗浄とデブリードマンを軸に、部位ごとに縫合するかどうかが判断され、感染リスクが高ければアモキシシリン・クラブラン酸を中心とした予防的な抗菌薬が検討されます。そして忘れられやすいのが破傷風トキソイドです。咬傷は汚染創に準じて扱われるため、最後の接種から5年以上経っていれば追加接種の対象になり得ます。母子健康手帳やお薬手帳を持参するだけで、この判断は格段に速くなります。
狂犬病については、日本国内の飼い犬による咬傷であれば現状のリスクはきわめて低く、過度な心配は不要です。ただし海外で噛まれた場合はまったく話が別で、その場での洗浄と、できるだけ早い曝露後予防の開始が唯一の対策になります。渡航中の受傷は「旅程より受診を優先する」と決めておいてください。
ペットは家族であり、噛まれたことを「大げさにしたくない」と感じる方は少なくありません。しかし咬傷への対応は、犬や猫を責めることとはまったく別の話です。適切に洗い、必要なら受診し、必要な予防を受ける——それだけで、その後の経過は大きく変わります。
※本記事は一般の方に向けた情報提供を目的としており、個別の診断・治療を行うものではありません。症状や状況に応じた判断は必ず医療機関にご相談ください。

コメント